2019.07.19
我が家では「飛びはね」が問題になっています。フィットネスの話ではありません。なわとびとかラインダンスとかそういうことでもありません。問題が起こるエリアは極めて限定的で、トイレ。それも便器の周辺。つまり、おしっこの飛びはね。もちろん、問題とされる対象は断じて僕ではありません。今年小学生になったうちの息子です。
彼がトイレでひとりで用を足せるようになったのはいつ頃だったでしょう。幼稚園のプレのクラスに入った頃か、その前か後か。「もうひとりでできるのか、たいしたもんだなあ」と親馬鹿ぶりを発揮して感心しまくっていた割には、具体的にそれがいつかというのは覚えていないものです。
デビュー当時の彼は、上手かった。こぼさなかった。ちゃんと便器の内側に体内から放出される液体のほぼすべてを注水し、したがって便器のまわりも実に清潔でした。妻も僕も彼を褒め称えました。「えらい」「すごい」「たいしたものだ」けれど正直なところ、僕にはわかっていました。それはただ、まだ彼の脚が短いだけなのだと。このままうまくはずはない、と。
そう、おしっこの飛びはねは、便器との距離の問題なのです。案の定、成長するにしたがって、彼がおしっこを失敗する回数が増えていきました。脚が伸びたのです。比例して、便器までの距離も伸びる。しかも離れたぶん勢いがつくので、便器の内側に注いでも入射と反射の関係でびちゃびちゃ跳ね返ってくる。急いでトイレに駆け込むときなど本当に酷いものがあります。適切なポジショニングを確認する前に発射するから、ホースの先を抑えずに水道の蛇口をひねるかのごとく、おしっこが四方に飛び散る。便座も持ち上げない。床をトイレットペーパーで拭うこともしない。おかげで我が家のトイレの床は猖獗を極め、臭気に満ち、うっかり便座に腰を下ろした者は悲鳴を上げるのです。
でも妻が腹を立てるのと同じテンションで息子を叱れないのは、僕もまた、子どものときそうだったから。実家のトイレをしょっちゅう汚していました。急いでいるときは便座に手をかけるのが面倒だったし、床にこぼすのは不可抗力と開き直っていました。
今、僕は「座り派」です。大学一年のときにひとり暮らしをはじめて、自分の部屋を汚くしたくない一心で座りション信仰へと傾倒するようになりました。「神経質すぎる」「男としての矜持はないのか」「敗北者め」「大と小を兼ねるな」そのときは男の友人たちから多くの批判を受けたましたが、その安全性、確実性、何より清潔感のために、以降、ずっと信仰を貫いています。
思うのです。いつか、彼も気づくときがきっと来る。今は男の「清潔感」が立派な商品として市場で歓迎される時代ですから、彼の回心は、案外、僕よりもずっと早いかもしれません。
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