2020.07.19
明け方に目が覚めて、三浦春馬についてのネットニュースを布団の上でだらだらとずっと読んでいました。
人は自分の死に方を選択できないと思っているから(自ら死ぬ、ということも、自分の選択の結果ではなく、“それを選ばざるをえなかった結果”だと思うから)、自殺については肯定も否定もしないけれど、残念に思うのは、とても可哀想だな、誰か助けてあげられる(受けとめてあげられる)人はいなかったのかな、ということと、世の中の「偏見」「妬み」「同調圧力」そういうものの総合的な言葉としての「あんなに恵まれた人生なのに」「才能もお金も仕事もあって勝ち組なのに」みたいな強大なベクトルへの嫌悪感(たぶんこういうことを言う人たちは、書く記者たちは、もし彼を“助けてあげられる唯一の人”が存在したとして、それが異性の既婚者だった場合、それだけで猛然と誹謗中傷するのだろう)。
そしてやっぱり思うのは、一度失った命は、おそらくもう二度とこれまでのようには本人は知覚できない、もう二度と同じ世界に戻ることができない、という虚しさ、哀しさです。「やっぱり、あのときこうした方がよかったね」と、何かを考え直したりやり直したりできるのは、生きていないと、なのです。
本当におしまいにしたかったのかな。きっとそうじゃないんじゃないかな。そんなことをつらつら考えながら、スマホの上で親指を動かすだけの、空虚さ。
今日はこれから、チケット取ったのに払戻になってしまったお芝居のストリーミング配信を見ます。でもちっとも元気が出ない。気力がわかない。なんかいろいろ、馬鹿馬鹿しくなってきた。
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