NIKKI

エアコンのない部屋で、近現代史を読む夏。

2020.08.12

 

暑い。暑い暑い暑い。

我が家はまともに稼働しているエアコンがわずか一台のみで、僕が寝ている部屋は窓からの風頼み。無風の夜はまさに灼熱地獄です。むわっとする部屋のむわっとするマットレスの上にむわっとする身体を横たえていると、なんかこう、生きているだけで他に何もやることがない感じがむわっとします。

ちなみに息子が寝ている隣の部屋にもエアコンがなく、夜中に熱中症にならないかちょっと心配。それにしてもここ二、三年で一気に夏が暑く(熱く)なった感じがします。30度オーバーの熱帯夜がこうも当たり前になってくると、「エアコンのない子ども部屋=虐待」という感覚に近く、とりあえずこの夏を乗り切ったら児童相談所に通報されないうちにオフシーズンになったら早めにエアコンの取り付け工事をせねば。(と、ここ数年同じことを思い続けながら、複雑な我が家のエアコンの配管事情と工事費用を考えて憂鬱になってそのまま次の夏…というのがパターン。)

ここんとこ読んでいる加藤陽子さんの日本近現代史の本が三冊目に。

日清戦争、日露戦争、第一次大戦、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と連なる流れを繰り返し読んでいます。8月になると毎年、悲惨な戦争の話や慰霊の行事の話題がメディアに登場して、「なんで負けるとわかってる戦争なんかしたんだろう」と思うことは思うものの、「なんで」の部分はちっともわからない。読みながら感じたのは、「戦争=悲惨」という苦みは、あくまで酷い敗戦を経験した現代の人間の感覚であって、もしかしたら当時は「戦争の悲惨さ」という感覚は庶民の中にそれほど濃く浸透していなかったのではないか、というようなこと。中国(清)とロシアに勝ち、第一次大戦でも勝ち組の方について、どんどん領土を拡張していった帝国主義時代の日本の国民は、「戦争で勝つこと」の甘みを知っていた。あるいは、苦みと甘みの両方を知っていた。原子力爆弾なんて誰も知らなかった。

昔のことを理解したければ、「今」から離れなくちゃいけない。現代を生きる視点や価値観で「過去」に対峙するのは、結局、大人が子どもに説教をするのと同じような構図になってしまう。それはまったくもって無意味なことです。

今日はこれから豚汁を作ります。