NIKKI

なんか、じわじわ沈んでいく。

2020.10.20

 

なんかじわじわと、低反発クッションみたいに気分が沈んでいきます。今日は朝から、次の〆切の原稿に取りかかろうと思っていたのに、そういう感じじゃない。

夏に「指定場所一時不停止」で警察のお世話になり、次回免許更新時のゴールド剥奪が決定した自分が言うのもなんだけど、頭に浮かぶことをつらつらと。

僕の叔父(母の弟)は、僕が生まれる前に二十代の若さで亡くなっています。詳しいことは知りません。交通事故で、車にはねられたと聞いています。加害者である相手の車は、飲酒運転だったそうです。

お酒を飲んで車を運転することが厳罰化されたのは、車と人との長い付き合いの中では、かなり最近のことです。不幸な事故が減るように、心を痛める人が減るように。罰則が厳しくなったのには相応の理由がある。でも逆に言えば、それはかつては、“罪にならなければ罪にならない”、そういう程度のものだった。そして今も、そう感じている人はそれなりにいる。人の心の中まで、他人が手を伸ばして触れることはできません。それがどんなに危険なことであっても。

「ただいまー」
「あれ? ちょっと、お酒入ってんじゃないの? え、車運転してきたの?」
「んー、でもコップ一杯だけだし、全然大丈夫。駐車場に一晩泊めると面倒くさいじゃん、金もかかるし」
「ほんと危険なんだから、絶対もうやめて。事故でも起こしたらどうすんの」
「わかったよ。今度から飲んだらタクシーで帰ってくるから。誰にも言うなよ」
「もちろん言わないよ」

法治国家では法律がすべてだ、なんてことは(個人的には)思いたくないし、あんまり言いたくもないけれど、法律はやっぱり前提として、「危険なことはやめよう」「ここから先はさすがにやっちゃダメだよね」という社会のコンセンサスの上に成り立っている部分がとても大きい。みんなが「それはまずいでしょう」「危ないでしょう」と思っているのに、「それほど悪いことじゃない」と開き直ったり「見なかったこと聞かなかったことにしよう」「とりあえずオッケー。いつも通りでいいよ」となかったことにするのが通用するのは、家の中のような、狭い、限られた空間(人間関係)の中だけです。

きっと、事後処理が話し合われた(決められた)空間は、とてつもなく狭かった。スタジアムに通い詰めるような人たちやいつも中継を見ているような人たち、チームを応援する人たち「みんな」が到底立ち入ることのできない、おもての日差しも、風も遮られた、社会性のない、内側から鍵のかけられた場所だったと思うのです。それは、判断ミスとか処理の仕方と表現されるような実務的な問題じゃなくて、誰もがわかるような、もっと大きな構造と適性の問題。

なんかなあ。

先週、次号のラランジャの小説とコラムを脱稿したばかり。その誌面を、サポーターは冷めた気持ちでめくるんだろうな、と思うと、ため息。しかも車の話、書いちゃったし……。

当然のことながら、今、チームは叩かれまくっているようです。一度大きな嘘をついた人は、他のことも嘘で塗り固めていると疑われる。隠しごとをした人は、別のこともいっぱい隠していると探られる。だんだんと、関わっている人たちみんながそういう目で見られることになる。そしてチームを思って不祥事に腹を立て、本気で怒っている人が、いつのまにか非難される側になってしまうような状況が、世の中の認識のギャップの中で生まれてしまう。というか、もう生まれはじめている。ピッチで頑張っている選手とか、何も知らなかったまわりのスタッフの人たち、外部の関係者の人たちが、余計なものを背負わずに仕事ができるといいなと思うけれど、しばらく、それはさすがに無理ですよね。

せっかく今年は期待できるサッカーしているのに。いい選手が揃っているのに。こんなことで……。さっき記者会見の議事録読んで、地元の報道陣が怒っているのがわかったことに、少しほっとしました。

何年か経って、「でもあんなことがあってから、前よりいいチームになったよね」と言い合える、そんな地元チームになってくれるといいな。ひとりの市民として。