NIKKI

書評のこと。

2019.09.18

 

ここのところ、劇場で映画を観ている。今月はすでに三本。月に三本、というとたいした数字じゃないように思うけれど、この数年、年に四、五回程度の頻度でしか劇場に足を運んでいないので(それには年一回の「劇場版ドラえもん」も含まれる)、月に三本は間違いなくたいした数字だ。映画を観ていると、いろいろと気づきがある。ふと感じたこと、いい感じの台詞、創作のヒント、それらを後からメモに残すこともあって、ときどき、そのメモをもとに映画評を書いてみようかと考えたりもする。こんなに面白かった、こんなに素晴らしかった、この映画はここがいいんだと、誰かに聞いて欲しい。好きなものを好きと言えるのは楽しい。ところが、メモパッドの紙片をかき集めて文章にしても、どういうわけか映画評のようなものにはならない。それは文字通りの散文でしかなくて、散らばったものをまとめるのは思いの外難しい。

文章を書くというのは、筋を通すということでもある。それがつまるところ、論じる、ということではないかと思う。書き手がストイックにならなければいけないところなのだ。自分の場合は、禁欲的になると急に書きたい気持ちが萎えてしまって(実は別に何も論じたいことなどないのだ、と気づいて)、結局、書くのをやめてしまう。

9月15日付の新潟日報朝刊に『ラストメッセージ』の書評が掲載された。朝早起きして、届いたばかりの新聞を開いた。書評の内容は本の著者には事前に知らされない。一般の読者と同じように、その日の朝にそれを知る。書き出しから引き込まれた。一行一行、わくわくしながら読んだ。普段、書くことに向き合っていると、何かの文章を目にしたときその文章がどういうものか、なんとなくわかる。書き手のテンション、情熱の有無、手抜き加減、どこに嘘が潜んでいるかまで、なんとなくわかる。その書評は、とても丁寧に書かれていた。言葉は誠意を持って選択され、流れるように構成され、細かな部分に気を配りながら、筋の通った文章が字数制限内に完璧に構成されていた。自分の書いた小説に、きちんと向き合って書いてくれたことがはっきりと感じられる書評だった。それどころか作品の本質が、著者よりも深く透き通った視線で観察されていた。〈不可能性の詩学〉なんて表現は、アカデミズムに縁のない自分ではとても思いつかない。もう素直に嬉しかった。すごい、と感動したし、頭の下がる思いだった。早速お礼のメールを送った。自分の本を通して、信頼できる書き手に巡り会えることは、何より幸運なこと。本を出してよかったとつくづく思った。

 

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